人を罵倒しながらについて考える

人を罵倒しながらではない。自分の意見を述べるのにはそれなりの過去の集積和である「知」がある。うちの両親は、新聞の勧誘を断れない人だった。それで、鍵っ子であった僕は、讀賣、毎日、中日、聖教とあらゆる新聞に目を通していた。社説から住民の声まですべて。それらが今の僕を形作っているに過ぎない、今度こそ言いたいことを伝えようとしてもなかなか良い媒体が見つからない。それで、あのような形でfacebookを使っていた結果(誤解を恐れずに言うとG社がどうのこうのと言う前から、僕は、facebook を使っていた)があれになる。もちろん、哀れがってくれといってるわけでもなく、お気の毒さまと声を掛けて貰うつもりも毛頭ない。僕は、大学生の頃に政治ゼミに入った。それは、テレビで政治家の発言に怒ってばかりいたのを見た父が、そんなに言いたいことがあるのなら、政治家になれ、と言ったからだ。名古屋出身の写真家の浅井慎平が合点のいくことを言っていた。なにかを写真で伝えられたら、と若い時には思っていたと言うものだ。だから、今度はInstagram を使ってそれを表現していくつもりだ。家人に撮ってもらうと、全部ふてくされた様な顔になる、と言うが、仕方があるまい、それが本当の姿なのだから。

ETSUJI 's DAILY LIFE

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