中津川の叔父さんの話
やめるやめると言って書き出すのは、悪い癖であって、決してやめるやめる詐欺では無いことをご容赦願いたい。
僕は、岐阜県中津川市のある街に、2週間弱、従兄弟の家に住んでたことがある。これは、今回の年賀状にもその時の写真を貼ってある。早々に連絡が来た、従兄弟から(女の子)。
その頃の中津川は綺麗な水が流れてて、牧歌的な山間に面した風景だった。
夏休みの間なので、寺小屋が残っていて、そこで従兄弟たちは、小学生高学年は小学生低学年の宿題の手助けをし、互いに助け合って宿題をしていた。
僕は、残念ながら、学区が違うので、それには着いて行けなかったので、ひとり、叔母さんとふたりで(叔母さんは掃除機をかける)、僕は、本を読んで過ごしてた。叔父さんは、学校の先生だったので、学校へ行ってしまっていていなかった(後に校長先生になる)。
ラジオ体操だけは、一緒に出てたけども。
叔父さんは、3人姉妹だったので、僕が来ると嬉しいのだろうか、野球をして過ごした。
そいでもって、酔うと「おまえは、社会科の先生になれ」といつも言ってた。
僕は、茄子が嫌いだったのだが、ずーっと食事時には、茄子が食卓には出た。ある日は、塩漬けにしたり、ある日は、味噌汁の具にしたりして、結局、最終的には、食べられるようになった。今でも食べる。このことを、結婚式の祝辞で叔父さんは述べた。僕は、どちらかと言うと、前途の方を述べて貰いたかったのだけど。
いまでも、いろんな親族に話すと、よく覚えてるなーと言うけども、自分の生まれた年のこと、自分を育んだ環境の事に興味が湧くのは、僕としては、当然のことなのであって。三島由紀夫が割腹自殺をした時、或いは、ジャニスジョップリンとジミヘンドリックスが死んだ年のことを調べたくなるのは、僕の元々の趣向性なのである。
図書館書士になりたかったはずの、中津川に住んでいる長女も、いまは離婚して、子連れのひとり身らしいし。
叔父さんは、晴耕雨書のようらしいので、一度、逢いに行って、その時の話で盛り上がってはどうか、と考えているのでR。
自然豊かな中津川を思い描くのは、いまは難しいようだけども、また故郷愛憐れむの姿勢で臨んでみてはいかがでしょうとも、ツアーリストみたいな文章で終わるのもこれまた気にいらんのであるけども、終わり始まる、という事で、ご容赦願いたい。
ここまで、スマホからさらっと書いてしまっているので、学術論文なんかよりも、かなり楽ちんなのです。一応、推敲はするけども、何文字ルールなんていらんので、フライヤーの裏に書くよりもかなり楽ちんなのには、間違いがない。
しかも、回想録なんてものは、唸って書くよりも、一筆書きのような方がアジが出ると言うものでもある。
ちなみに、家人はすでに寝息をたてている。僕はと言えば、いつまで経っても、夜の人なのです。おわり。
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